日々の泡?
日常は虚しさで覆われているんだという気持ちになっています。
心の底から満たされていると言える日はこれからどれほど来るのでしょうか。これまでどれくらいあったかもわかりませんが、とにかく虚しい気持ちでいっぱいです。
ただ、この虚しさにも慣れなければいけないのかもしれません(年相応に?でしょうか、年齢に関係あるかもよくわかりませんが)。
都市という虚構の真ん中にある程度近いようなところに住んでいるため、それなりに変化があり、環境の刺激があるような場所のはずで、それは日本に住んでいる人の中で最も虚しさを感じることのない生活をしていることを意味しているのかもしれません。もしくは虚構であるがゆえにその逆なのかもしれません。時は戻せないので正当な判断はできませんが、都心に住んでいても田舎に住んでいても同じ思いを抱き続けていたのかもしれません。
ただ、ずうっと田舎に住み、都心に行きさえすればという幻想の中で迷うような人生にはなることがもはやないであろうことはある程度幸運なのかもしれないとは思います。
実家から出たころはそれ自体の喜びに、生活を我が手にした喜びに、人生をついに手に入れ始めたのではないかという気持ちになったものですが、最近は慣れてしまったのかそのような気持ちになかなかなれません。
ただ労働に消耗する日々、そして休日は家事に消耗する日々のような気がしてきてしまいました。家事は今でもかなり好きな部類ですが、前のような生活を手にしている喜びが以前よりないのは確かです。ある程度擦り切れてきてしまったのでしょうか、単に慣れの問題でしょうか。それとも単純に体力の問題でしょうか。
とにかく「いま、ここ」に潜ることがだんだん難しくなってきているように感じています。すべては歳をとっても自意識からうまく逃れられていないだけの話かもしれませんが。
不調
精神的に不調になってしまい一昨日から出勤していない。
伴って体調もよろしくないので何かをするのもなかなか難しく、これからどうなるんだろうと不安を抱えながらぼんやり過ごしている。
どこかでこうなるんじゃないかとは思っていたのだが、いざその状態になると思ったより大ごとだなという感想を抱いた。
日光を浴びながら運動して自然を眺めたりすると保養になりそうなのでハイキングにでも行きたいところだが、もう少し気力が回復しないと難しそうだ。
過ぎた
なんとなく「25歳までは生きるか」と思っていたけどあっさり過ぎてしまった。
学生の頃はインターネットや書籍、雑誌から得た情報を吐き出す機械に近かった気もするが、労働者になってからは得るものがなくなってしまったので吐き出すものもなくなり、ろくに勉強もしていなかったのでストックもない。そんな状態にもう慣れてしまった。
労働者になってからは労働時間以外はアルコールを入れることでしのいできたのだが、だんだんとそういうフェーズではなくなってきたのを感じる。学生の頃との差異にも慣れ、アルコールにも慣れた部分があるのだろう。もう前のような気晴らしにはならない。
手
最近、自分の手を見て泣きだしそうになることがある。
ああ、大人の手だ、と思う。
それはすこし毛が濃くなったように思えるからかもしれないし、血管が浮いているからかもしれないし、すこし痩せて骨が目立つようになったからかもしれない。
こんな手になりたくなかった。
火曜日の夜の話
郵便受けから夕刊を取り出したら郵便受けが大破した。そのことを考えながら晩ごはんを食べたら眠たくなったので、30分だけ眠ってから郵便受けの修理と洗い物をしようと思い、眠った。まだ8時くらいだった。
しかし、同居人の呼ぶ声で起きたときにはもう11時になっていた。ゴキブリが出たから起こしたそうだ。カウンターの上で這い回るそれはけっして小さくなかった。もちろんそれを目にした僕も足がすくみ、ただただ悲鳴をあげるだけだった。ゴキブリを前に悲鳴をあげる成人男性二人。二人ともそれの半径5メートル以内には決して入ることができなかった。
仕方がないので、すでに眠っていたもうひとりの同居人を大声で起こした。彼はなんでもないかのように新聞紙でそれを捕まえ、窓の外に放り投げた。そうしてまた自室へと戻っていった。
ひと段落し、同居人とたばこを吸っていると、彼は言った。「もうあの子からは一生離れられない」それはそれはとてもかわいい台詞で、この家は最高だ、と思った。
その後洗い物が放置されていたことに苦言を呈されたりしたものの、30分寝るつもりが3時間眠ってしまったことや、ゴキブリが家に出たことや、郵便受けが壊れたことなどのショックはすでに寝起きのぼんやりとした頭で処理できる容量を超えていたので、ぼんやりと返事をするだけだった。
洗い物はそのまま次の日まで放置され、郵便受けも修理されなかった。2時過ぎまで起きていて、たばこが5本減った。