「読書は現実逃避にすぎない」は本当なのか

 小説を読む、物語を読むとはどういうことなんだろう、と最近考える。そのきっかけは、最近友人に「小説なんて現実からの逃避にすぎない」と言われたからだ。それは果たして本当なのだろうか。(もちろん文字に限るわけではなく、映画なども同じだと思われる。)

 

 小説を読むという行為において、私たちは基本的に他人(主人公)の人生をA地点からB地点へと追っていくことになる。そしてそれは基本的にフィクションであり、現実では起こっていないことである。

しかし、私たちはそれが現実と肉薄した、基本的に現実と同じ論理で動く世界であるから、それを理解し、心を動かすのである。それは、起こりうるかもしれないが起こらなかった世界を体験するのだ。自分ではない誰かになって、自分ではない人として、可能世界を体験するのである。

 

 それは果たして逃避になるのだろうか。現実から私たちは逃避することができるのであろうか。それはむしろ、現実を照らし、より強い現実へのコミットメントを促しはしまいか。

 

 生きる中で「これはどうしてこうなんだろう」「これが起こったのはなぜ? 」というような問いを抱かない人はおそらくいないだろう。その問いが頭をもたげるのは、それが起こらなかった世界が想像できるからである。つまり、私たちはそれが起こらなかった可能世界を思い描くのだ。そしてそれは、現実をよりくっきりと浮かび上がらせる。「これが起こらなかった世界X」「あれが起こらなかった世界Y」ではなく、「これが起こってしまった、あれが起こってしまった”この”世界」であるということが、否応なく私たちに見て取られる。それは可能世界を思い描けば思い描くほどに、現実はくっきりと浮かび上がることになりはしないだろうか。

 

 小説を読むとは可能世界を体験することであると述べた。であるならば、小説を読めば読むほどに、「私は白雪姫でもなくラスコーリニコフでもなく、他ならぬ私でしかなく、この世界はタイム・マシンがある世界ではなく、幕末の時代でもない、いまこの世界でしかない」ということが浮かび上がってくるのではないだろうか。であるならば、小説を読むことで逃避することは不可能である。

 

 

 

 しかし、ここでもう一歩考えたい。たしかに、辛い気持ち、嫌な気持ちになったとき小説を読み、元気をもらうのは多くの人が経験しているようにも思う。おそらくここから、小説は辛いときに現実逃避するために読むということが言われたのではないかと思う。

 

 しかし、これは二つの方向から説明できるように思う。ひとつは読書体験には人間が幸せを感じる要素があるということ、もうひとつは再認識の問題である。

 

 前者から述べると、これは聞きかじった話で恐縮だが、人間が幸せを感じるものにはいくつかの要素があるらしい。それは例えば快楽であったり、人とのつながりであったりである。そしてその中に、没頭というものがあるという。いわゆるフロー体験というものである。(これを聞くたびに西田の純粋経験を思い出す。)読書はそれこそ没頭をする行為であるから、読書を終えた後には没頭という体験のあとで幸福感を得られるはずだ。それを現実逃避したと感じるのではあるまいか。(実際、なにかやるべきことを放り出して読書をした場合は現実逃避と呼べるだろう。)

 

 後者について述べると、「今の世界の価値を再認識する」ということだ。先ほど、読書によって可能世界を体験することで現実がよりくっきりと浮かび上がると述べた。そこで、例えば可能世界にないものを現実世界に見出したり、また、物語中での主人公の世界の見方から、世界の新たな見方を学び、そこから現実世界の価値を再発見したりということができるようになるだろう。これは先ほど例に出した、「嫌な気持ちになったときに読書をして元気になる」というものの内容である。

 

 まとめると、読書で現実逃避をすることはできない。むしろその逆であり、現実がよりくっきりと浮かびあがるのである。しかし、読書という行為そのものから幸福感を感じたり、そこで価値の再発見をしたりすることはできるのである。