”父”という幻想――『アメリカン・スナイパー』

先日『アメリカン・スナイパー』を観た。面白かったがなんとなくもやもやした。なんというか、20世紀の天才映画監督クリント・イーストウッドが21世紀へと抜け出そうとして抜け出し切れなかったような、そんなもやもや感だった。

 

この映画は不完全な”父”の物語だった。主人公のクリス・カイルは「羊でもなく、狼でもなく、番犬となれ」と父親から教わって育つ。この番犬とは狼にいじめられる羊を守る、正義感に溢れた強い存在であり、明らかに”父”である。一家の番犬たる父からそう教わったクリスは軍隊に入る。世界の番犬=父としてのアメリカの、その最前線に立つのだ。そこで、クリスは”伝説”と言われるほどに活躍する。彼は世界の”父”なのだ。

 

しかしクリスとて完全な”父”ではない。”仲間を助けるんだ”と言い戦場に赴くが、相棒の兵士は撃たれ、その後死んでしまう。他にも多くのアメリカ兵が死んでいく。また、イラクへ行くたびに家族とは距離が離れていくのである。

 

そして、彼が帰国して家族と過ごしていたとき、非常に象徴的な出来事が起こる。彼はだんだんとPTSDみたいなものに悩まされるようになっていたのだが、彼の子どもが公園だか庭だかで遊んでいて飼い犬とじゃれあっているとき、その発作に襲われて犬を押さえつけ、殴りかかろうとするのだ。これはすんでのところで我にかえるのだが、”番犬=父”であるはずのクリス・カイルが番犬を殺そうとするのである。ここにはもう偉大な”父”の姿はない。ここに父としての姿の、決定的な行き詰まりがあったように思う。

 

その後、この映画のボス的な存在である敵の凄腕スナイパーを倒し、クリスは退役する。

そしてこの映画の最後に、クリスは死ぬ。退役軍人のひとりに殺されるのだ。徹底して”父”であろうとした主人公は、決して”強くて正しい父”にはなれなかった。

 

これがイラク戦争を舞台にした映画だというのもまた象徴的である。イラク戦争は正しい戦争ではなかったのだ、正しく強く世界の”父”たるアメリカなんて幻想だ、ということを伝えようとしているように思えた。”番犬=父”になるべく育ち、”世界の父”たるアメリカ軍で伝説となったカイルですら、そうではなかった。家族とは溝ができ、戦争では戦友が亡くなり、戦争自体も正しいものだったとは言えない。

 

アメリカはもはや”強い父”ではないのだ。このことをクリス・カイルという一人の人間を通して、様々なレイヤーで見事に描き出したイーストウッドは流石である。そういう意味で非常に面白かった。そして、20世紀のいわゆる”大きな物語”というようなもの、強くて正しいアメリカ像のようなもの、そういうものはもはや描かれず、むしろその不完全性が描かれるというところは、やはり21世紀ももう10年以上経っているからな、という感じがした。

 

しかし、クリス・カイルはただ死んでしまった。最後まで、”父”であろうとして。それが不完全なものだと知っているのにもかかわらず。彼は決して父ではないものになろうとしなかった。つまり、行き詰まったままにその生涯を閉じ、この先の21世紀を示すことができなかった。ここになんとなくもやもや感を感じてしまった。