誰か故郷を想はざる

ほぼ毎日文章を書こう書こうと思うのだが、文章が散らかったり、書きたいテーマの背景を書かねば…そしてそのさらなる背景も書かねば…みたいになってどこからどこまで書くべきか判断できなくなったりして全く文章を書くことができていない。嗚呼。

 

先ほど、東京出身者の多くには故郷がない、という記事を読んだ。

東京は故郷ではない? 東京出身者の4割が「故郷がない」と認識 〈dot.〉|dot.ドット 朝日新聞出版

 

私は神奈川県に生まれ、神奈川県に住んでいるが、自分に故郷なんてものがあるとは思っていない。

私は家族が嫌いで、とにかく逃げ出したかった。そう思って生きてきたし、今でも逃げ出したいと思っている。そのためか今住んでいる実家の場所も全く好きではないし、故郷が欲しいとも全く思えないのである。むしろ、逃げて逃げて逃げていきたい。

 

ただしこれは私が東京の中高一貫校に通っていたからかもしれない。中学校のときから遊ぶには必ず都心に出ていたし、地元にいることがなかった。そして小学校の友人の多くも自然と疎遠になったので、地元に居着く要素がほとんどなかった。地元より、思春期を過ごした学校のある地のほうが好きだと自信を持って言うことができるし、それはずっと変わらないだろうと思う。

 

だから、大学へ進学した際に、地方出身の人々が口を揃えて地元が好きだと言っているのにびっくりした。しかし私が地元を嫌いな理由は家族に起因するところが大きいので、家族とも円満で、地方でものすごい優秀でつまづくことなく、そして生活範囲は狭く生きてきたら幸せな地元の思い出ばかりだろうし、好きになって当然かもしれない。また地方は首都圏に比べて地縁血縁が強いだろう。そこで上手くいっている限りで嫌いになる道理はない。

 

私の家は私が3歳のときに引っ越しをしたのだが、3歳まで住んでいた場所も、今住んでいる場所も、将来全く懐かしさをもって私に迫ってくることはないように思われる。しかし思い出は何かと美化されてしまうので、もしかすると数十年後訪れたらそれなりの郷愁を持って私のもとにやってくるのかもしれない。まあ、今は実家にいるのでまずは出るところから始めなければならないのだけど。

 

しかしそこで気になるのが親の介護である。介護があるために今住む場所から離れられないかもしれない、もしくは戻ってこなければならないかもしれない、というのは本当に地獄だと思う。本当に地縁や血縁をはじめとするすべてが枷である。それは友情みたいなものもそうであるし、肉体もそうであるし、言語もそうである。まったくこの世のすべては枷だ。時々、すべてを投げ捨てたいと思うことがある。それは家族のように普段から鬱陶しく感じているものでなくてもだ。

 

ここまで書いてすべて消したい衝動に駆られたけれどここらで書くのをやめて公開しておこう。いつでも消せるしね。

 

 

 

東浩紀『弱いつながり』

読了。

 

今や私たちは、常にインターネットに接続されている。

そんなインターネットの王者はグーグルであり、私たちはグーグルの枠組みの中でしか情報に触れられない。

わたしたちひとりひとりがかけがえのない、よりよい人生を送るには、そこから脱出しなければならない。

そのために、グーグルの検索窓に入れることばを変える。

そのためには、インプットを変える=環境を変える必要があるのだ。

私たちは身体を持っており、そのためどうしようもなく限界がある。

しかし、これが検索窓に入れることばを変えることに繋がっていくのである。

 

インターネットは強く、リアルは弱い。

彼は本の中で以下のように述べる。

世の中の多くのひとは、リアルの人間関係は強くて、ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。でもこれは本当はまったく逆です。

インターネットは強い絆をより強くするものである。一方で、リアルにはノイズがある。これには大きく「接続」が関わっているように思う。

私たちはインターネットに24時間接続されている。メールは24時間送られてくるし、常にTwitterを見ている。ことSNSにおいて、日常に紐づいたものでもそうでなくても、何らかのコミュニティにコミットしているだろうし、日常生活の中でそこから逃れられることはほとんどないだろう。しかし、リアルでは接続しつづけることはできない。誰かに会っていても、一度別れてしまえば、次に会うまでに切断が起こるのだ。

 

身体には限界があり、それはインターネットに接続されつづける社会において、分断、変化、偶然性をもたらすというポジティブな意味を持つことになる。それを上手く使っていくことで、よりよい人生を送ることができるのかもしれない。

 

その他の感想としては以下に。

彼の著書は他のものも、読者に対して非常に丁寧である。読者を置いていかないように、置いていかないように、という努力が非常にされていると思う。

 

最終章で語られる、インターネットは体力勝負だという話は、宇野常寛氏の「インターネットでの動員を炎上マーケティング以外で起こせていない」という話と同じようなことを言っているように思う。まあ界隈の人々は多かれ少なかれ同じ思いを共有しているんだろう。

 

ボーナストラックで、平野啓一郎の「分人化」に言及する部分がある。東浩紀は分人化への思いには同意するが、アイデアには賛成出来ないと言う。むしろ、それぞれのコミュニティの「お客さん」になる、というものを提案している。このスタンスの違いは、インターネットへの距離感、比重の違いから来ているのではないかとなんとなく感じた。東浩紀平野啓一郎Twitterでフォローしているが、東氏のほうがTwitterに非常に日常を浸食されている(というと適切ではないが、より頻度が高いというか、仕事でもプライベートでも多いに使ってリアルと絡み合っている)という印象がある。Twitterの本質は微分性にあるという話を芦田宏直がしていたが、Twitterはアカウントごとの人格としても非常に機能している。つまり、一つの人格として様々なコミュニティに触れる環境にいるように思う。そういうところから意見の相違があるのではないか、と何となく感じた。

 

『LEGO®ムービー』が傑作すぎる件について

※ネタバレあり

 

 

すべてが素晴らしい。この作品は絶対に観るべきだ。

 

簡単な物語の説明。

悪役たるおしごと大王に対し、平凡な男が戦いを挑むというものである。

悪役の説明からしよう。悪役は、おしごと大王という男である。彼はこの世界を支配している。そして、人々が暮らすためのマニュアルを作り、また、テレビ番組や曲もすべてを決めているのである。

そして、この話の主人公は平凡な作業員だ。本当に特徴のない顔、特徴のない生活、特徴のない性格である。この主人公があることをきっかけに世界を救う人物だと思われるのだ。そして、この世界の地下勢力とともにおしごと大王と戦ってゆく。

 

 

 

この話の何が面白いのか。

 

まず一つは、小さい頃レゴで遊びながら思い描いたようなアクションが、予想以上の迫力で描かれていることだ。これは本当にただ観てくれというしかないのだけど、

「そうそう、小さい頃はこういうことを考えながらレゴで遊んでいたんだよ!」

と言うようなものとなっている。それが映画館の巨大スクリーンで展開されるのだ。

 

もう一つ、小ネタが非常に多い。この映画にはバットマンをはじめとして、非常に多くのキャラクターが登場し、それだけでもニヤリとしてしまうのであるが、これらのキャラクターが一同に会する時がある。このとき、芸術家・ミケランジェロの隣にティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズミケランジェロがいたりするのだ。このように、思わずニヤリとする小ネタが随所に仕込まれている。

 

さらには、この物語を通じて、創作とは?クリエイティビティとは?などの問題を考えさせられる所も大きな魅力だろう。

 

また、これは人によって好みが分かれるだろうが、物語全体のテンポの良さ、ノリである。まるで『TED』を思い出させるようなアメリカのコメディーのテンポで物語が進む。『TED』を観て、面白かったと感じた人はそれだけでも観る価値があるのではないか。

 

このように、いくつもの魅力があるのだが、最大の魅力は物語の構造にある。

 

ひとつ、おしごと大王の目的は完全なレゴの世界を作ることなのだ。そのためにスパボンという武器を使おうとする。これ、実は接着剤である。これで他のレゴを固めて、完全なレゴの世界を作ろうとしている。

これのミソは、おしごと大王自身がレゴの中のキャラクターであることだ。そのメタ性は、なかなか他の作品にはないユニークさを持っている。

 

ふたつ、おしごと大王はこの世界を完全なものにするために、マニュアルを配っている。また、曲やテレビ番組まで作っているのだ。そして、主人公も最初はそのマニュアルに従うだけの人間だ。主人公たちの一団は、この支配からの解放を求める勢力でもある。これはジョージ・オーウェルの『1984年』を何となく思わせる。

 

そして最後。物語終盤、この映画はレゴの世界を一度離れ、人間世界の話となる。

ここで二人の人物が登場するのであるが、一人は子供、もう一人はその父親である。

 

ここで明らかになるのは、これまで展開されてきた物語はある子供が考えた物語だったということだ。

そして、その父親はレゴマニアとでもいうような人物で、自分の部屋に他人には触らせないようにレゴの街を作り上げている。子供はそこに忍び込んで、考えた物語を展開するのだ。父親のレゴの街に、多くのキャラクターを配置して。

 

そのことに激怒した父親は、なんと子供の配置したキャラクターやレゴを壊し、接着剤でもとの街を固定しようとする。

 

ここで、現実世界とレゴの世界は完全にリンクするのだ。つまり、おしごと大王とは父親であり、主人公は子供なのである。子供がおそらく才能豊かでない、平凡な子供であることもここで何となく察しがつく。

 

そして、このリンクしたふたつの世界を行き来しながらおしごと大王のもくろみを頓挫させることに成功し、物語は終わる。これはもちろん、現実世界の子供が父親を倒すことにも成功したということだ。

平凡な男が世界を救う。このプロットはいわゆる「セカイ系」を何となく思わせるものでもあった。

 

平凡な子供が作る、壮大な物語。

 

子供向けに思わせながら、完全に大人に向けた作品である。もちろん、子供が観ても十分に楽しめるはずだ。

 

浅田次郎「降霊会の夜」

日本に生まれてよかった。どんな作品を読んだときよりも、どんな美味しいお寿司を食べた時よりも、どんな美味しいお味噌汁を飲んだ時よりもそう思った。

 

さらに言うならば、東京で育ってよかった。東京が舞台となるこの作品を読むのに、首都圏出身であることがこの作品のニュアンスをつかむのに役立ったのかはわからないけど。

 

浅田次郎氏の作品を読むのは実は初めてである。中学校の先輩であることから気にはなっていたが、今まで読んでいなかった。かろうじて「地下鉄に乗って」の映画版は見ていたけれど。Kindleセールに感謝である。買ってもしばらく積んでいたのだけど。

 

人の過去における葛藤や後悔を描き、そこに諦念を非常に丁寧に織り込んでいる。それがとても上手いと感じた。また、日本人でないとこれは書けないだろう、日本人でないとわからないだろうとなんとなく感じた。

 

「地下鉄に乗って」も同じような雰囲気で、舞台は東京で、また、日常の中でふと不思議な世界に入り込む点でも共通していたような気がする。あまり覚えていないのだけど。もっと彼の作品を読み、浅田次郎の問題意識を知っていきたい。

 

この作品はおそらく他の誰にも書けないだろう。特に、外国人には。一部と二部(?)のつながりがあまり見えなかったと思うし、二部のオチなどは消化不良であるように思うけれど、非常に面白く読めた。

 

そういえば、

だから人生は、「さよなら」の連続なんだ。

という一節があったけれど、これは井伏鱒二のアレなんだろうか。

 

 

とにかく、この作品を読むまで生きていてよかった。