東浩紀『弱いつながり』
読了。
今や私たちは、常にインターネットに接続されている。
そんなインターネットの王者はグーグルであり、私たちはグーグルの枠組みの中でしか情報に触れられない。
わたしたちひとりひとりがかけがえのない、よりよい人生を送るには、そこから脱出しなければならない。
そのために、グーグルの検索窓に入れることばを変える。
そのためには、インプットを変える=環境を変える必要があるのだ。
私たちは身体を持っており、そのためどうしようもなく限界がある。
しかし、これが検索窓に入れることばを変えることに繋がっていくのである。
インターネットは強く、リアルは弱い。
彼は本の中で以下のように述べる。
世の中の多くのひとは、リアルの人間関係は強くて、ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。でもこれは本当はまったく逆です。
インターネットは強い絆をより強くするものである。一方で、リアルにはノイズがある。これには大きく「接続」が関わっているように思う。
私たちはインターネットに24時間接続されている。メールは24時間送られてくるし、常にTwitterを見ている。ことSNSにおいて、日常に紐づいたものでもそうでなくても、何らかのコミュニティにコミットしているだろうし、日常生活の中でそこから逃れられることはほとんどないだろう。しかし、リアルでは接続しつづけることはできない。誰かに会っていても、一度別れてしまえば、次に会うまでに切断が起こるのだ。
身体には限界があり、それはインターネットに接続されつづける社会において、分断、変化、偶然性をもたらすというポジティブな意味を持つことになる。それを上手く使っていくことで、よりよい人生を送ることができるのかもしれない。
その他の感想としては以下に。
彼の著書は他のものも、読者に対して非常に丁寧である。読者を置いていかないように、置いていかないように、という努力が非常にされていると思う。
最終章で語られる、インターネットは体力勝負だという話は、宇野常寛氏の「インターネットでの動員を炎上マーケティング以外で起こせていない」という話と同じようなことを言っているように思う。まあ界隈の人々は多かれ少なかれ同じ思いを共有しているんだろう。
ボーナストラックで、平野啓一郎の「分人化」に言及する部分がある。東浩紀は分人化への思いには同意するが、アイデアには賛成出来ないと言う。むしろ、それぞれのコミュニティの「お客さん」になる、というものを提案している。このスタンスの違いは、インターネットへの距離感、比重の違いから来ているのではないかとなんとなく感じた。東浩紀も平野啓一郎もTwitterでフォローしているが、東氏のほうがTwitterに非常に日常を浸食されている(というと適切ではないが、より頻度が高いというか、仕事でもプライベートでも多いに使ってリアルと絡み合っている)という印象がある。Twitterの本質は微分性にあるという話を芦田宏直がしていたが、Twitterはアカウントごとの人格としても非常に機能している。つまり、一つの人格として様々なコミュニティに触れる環境にいるように思う。そういうところから意見の相違があるのではないか、と何となく感じた。