夏は来ぬ

もしかするともう夏が来たのかもしれない。

梅雨明けという話は聞いていないけれどとても暑くて日中に食欲は出ないし、都心でも虫を頻繁に見かけるようになったし、燃えていた緑の葉も太陽の眩しさにすっかり負けるようになってしまった。

 

でも、不思議なことにビールは前よりも美味しく無くなってしまったように思う。このことをはじめとして、(4月から社会人になってしまったのだけれど)「社会人になったらこうなんだろうな」と思っていたことのうちいくつかはそうならなかった。

 

例えば、ニュースはどんどんと自分ごとのように感じるようになるのだろうな、と思っていたけれどニュースを見ていたような時間に労働をしているので、ニュースを見たり読んだりする時間も本当に少なくなり、むしろ狭い世界に入ってしまった自分とは関係のない事柄にしか思えなくなり、まださまざまな可能性に開けているように信じることもできた学生のころに比べてどんどん世の中が遠くなっていく気がする。学生時代はいちおう世間離れしていそうな哲学を専攻していたし、これは裏切られないと思っていたのだけれど。

 

4月からこういった裏切りはたくさんあったけれど、でも虚しさだけはどこまでも裏切らなかった。毎日出勤すること、多くの友人たちがゆっくりと自分の世界から退場しつつあるように思えること、ここに「顔」を見たんだ、自分の人生にはもう間違いなくこれがつきまとうし、これを追いかけ続けることになるんだ、と思ったような問いすらも、物事すらも失われていくこと、そしてそうなってしまっている以上、いま・ここに没入することは、生活そのものに没入していくことはもはや不可能に思えること、すべてが虚しく思える。すべての思い出に、すべての世界に陽関三畳を送りたいくらいだ。

 

夏の暑さは全てを失わせる。それは寒さもそうだけれど、すくなくともひとりの人間の思いを雲散霧消させてしまうくらいには自然環境は、気候は強力で、どこまでいってもすべてを受け入れていくしかないのだ、すべてを受け入れて引き受けることしかできないのだ、くだらない肉体と卑小な精神しか持たない人間はただじっと耐えて、すべてを虚しさとともに引き受けて、絶望の中で生きていくことになるのだ、という思いがいま一度湧き上がる。

 

いくつかのもっと言いたいこと、思うことは下書きの中でインターネットの海、情報の海に埋もれることもできずに腐っていくのに、こういったことは酔った勢いで書くことができるのである。嗚呼。