「若者論」に賛成する若者は存在するのか

「若者」論のほとんどに同意できたことがない。現代の若者はかくかくしかじかである、という論は世の中に数多あり、もちろんその全部を読んだわけではないけれど、彼らの分析に若者の一人として「そうそう、そうだよな!」と思ったことはない。もちろん彼らの分析の全てにそう思うわけではない。この一センテンスには、この一段落には納得する、というようなことはままある。

若者のみんなはああいうものをどういうふうに捉えているんだろうか。ああいうものに概ね同意だったりするのだろうか。

僕は「東京大学合格者数トップ10」みたいなものに入るような私立中高一貫校を卒業して、世間でも「お利口さんだね」と言われるような大学に在学中である。つまり、疑いなく自分は同世代におけるマイノリティなのだ。世の中の大多数の人間から最も遠いといってもいいような世界で青春時代を過ごしてきた。世の中を動かす官僚を一番輩出する東大が一番世間離れしている、みたいな皮肉と同じ論理である。

さらに言うならば、そこでも僕はマイノリティだった。同じ世界にいた友人たちの家庭は、皆高学歴で高収入でいわゆるエリート家庭だったのである。まあ当然ではあるけれど、エリート校に子どもを通わせる親御さんなんてだいたいエリートなのだ。一方で僕の両親は大学なぞ行っておらず、高収入でもなく、まあ普通の高卒で働き始めた人間が結婚して作った家庭なのである。つまり、なんと言うかある種のねじれを抱えて育ったのは事実だと思う。僕のような家庭で私立中高一貫難関校に行っている人を僕は自分の母校でも、他の学校でも今のところあまり知らない。

家庭内についても、育つ中で「ここはあまり普通の家ではないのではないか」という印象を持っているが、家庭内なんてどこも千差万別だろうしまあいいとしよう。

 

とにかく、そういうマイノリティの中で育ってきたという感覚が確かにあり、自分が若者の感性を代表できるとは全くもって思えないのである。

そういえば前に、同じ中高出身の友人も、若者論などがピンときたことがないと言っていた。しかし彼も僕と同じくエリート校出身であるというマイノリティであるため、彼の意見が世の中のスタンダードだとも思えない。サンプル数1だし。

これらは、僕(ら)の感覚がずれていることの証左なのだろうか。

 

しかし、若者論、世代論とはそれが成功している限りでハイソだろうとそうでなかろうと世代・時代に共通するものをあぶり出しているはずなので、そういう意味ではマイノリティかどうかなんて関係ないはずである。しかしそれにしても彼らの論にはあまり同意できない、というかどこかずれた印象を受けるのである。

また、これは感覚でしかないが、若者論、世代論について「そうだよ、僕たちはこういう存在なんだよ!」と膝を叩いているような人をリアルでもネットでも見たことがないように思う。

「今年の新入社員は○○型である」みたいな謎の評価もそうだけれど、ああいうものはもしかするとこれまで成功したことがないのではあるまいか。

 

マイノリティたる自分とその周囲の感性がずれているか、若者論・世代論が成功していないか、どちらなのだろう。

 

というか、どういう出自の人なら「俺がレペゼン若者だ!」と言えるのだろうか。いわゆるマイルドヤンキーだろうか。謎だ。まあこういうのは個人に代表される性質のものでもないとも思うけれど……。というかマイルドヤンキー層だって、当人たちに「マイルドヤンキーとは○○な人である」みたいなものを読ませてみたとして、彼らが「そうそう、おれらってこういう存在だよな」と言うかはけっこう疑問なのではないか。

 

そういえば成人式のときは会場に行ったら本当にヤンキーがめちゃくちゃいて、「この地域には、というかこの世の中にはまだこんなにヤンキーがいるのか」という謎の感動を覚えた。そして「彼らは普段どこにいるんだろう…」とも思った。彼らとは本当に行動範囲がかぶっていないのだろう。