夏は来ぬ

もしかするともう夏が来たのかもしれない。

梅雨明けという話は聞いていないけれどとても暑くて日中に食欲は出ないし、都心でも虫を頻繁に見かけるようになったし、燃えていた緑の葉も太陽の眩しさにすっかり負けるようになってしまった。

 

でも、不思議なことにビールは前よりも美味しく無くなってしまったように思う。このことをはじめとして、(4月から社会人になってしまったのだけれど)「社会人になったらこうなんだろうな」と思っていたことのうちいくつかはそうならなかった。

 

例えば、ニュースはどんどんと自分ごとのように感じるようになるのだろうな、と思っていたけれどニュースを見ていたような時間に労働をしているので、ニュースを見たり読んだりする時間も本当に少なくなり、むしろ狭い世界に入ってしまった自分とは関係のない事柄にしか思えなくなり、まださまざまな可能性に開けているように信じることもできた学生のころに比べてどんどん世の中が遠くなっていく気がする。学生時代はいちおう世間離れしていそうな哲学を専攻していたし、これは裏切られないと思っていたのだけれど。

 

4月からこういった裏切りはたくさんあったけれど、でも虚しさだけはどこまでも裏切らなかった。毎日出勤すること、多くの友人たちがゆっくりと自分の世界から退場しつつあるように思えること、ここに「顔」を見たんだ、自分の人生にはもう間違いなくこれがつきまとうし、これを追いかけ続けることになるんだ、と思ったような問いすらも、物事すらも失われていくこと、そしてそうなってしまっている以上、いま・ここに没入することは、生活そのものに没入していくことはもはや不可能に思えること、すべてが虚しく思える。すべての思い出に、すべての世界に陽関三畳を送りたいくらいだ。

 

夏の暑さは全てを失わせる。それは寒さもそうだけれど、すくなくともひとりの人間の思いを雲散霧消させてしまうくらいには自然環境は、気候は強力で、どこまでいってもすべてを受け入れていくしかないのだ、すべてを受け入れて引き受けることしかできないのだ、くだらない肉体と卑小な精神しか持たない人間はただじっと耐えて、すべてを虚しさとともに引き受けて、絶望の中で生きていくことになるのだ、という思いがいま一度湧き上がる。

 

いくつかのもっと言いたいこと、思うことは下書きの中でインターネットの海、情報の海に埋もれることもできずに腐っていくのに、こういったことは酔った勢いで書くことができるのである。嗚呼。

「読書は現実逃避にすぎない」は本当なのか

 小説を読む、物語を読むとはどういうことなんだろう、と最近考える。そのきっかけは、最近友人に「小説なんて現実からの逃避にすぎない」と言われたからだ。それは果たして本当なのだろうか。(もちろん文字に限るわけではなく、映画なども同じだと思われる。)

 

 小説を読むという行為において、私たちは基本的に他人(主人公)の人生をA地点からB地点へと追っていくことになる。そしてそれは基本的にフィクションであり、現実では起こっていないことである。

しかし、私たちはそれが現実と肉薄した、基本的に現実と同じ論理で動く世界であるから、それを理解し、心を動かすのである。それは、起こりうるかもしれないが起こらなかった世界を体験するのだ。自分ではない誰かになって、自分ではない人として、可能世界を体験するのである。

 

 それは果たして逃避になるのだろうか。現実から私たちは逃避することができるのであろうか。それはむしろ、現実を照らし、より強い現実へのコミットメントを促しはしまいか。

 

 生きる中で「これはどうしてこうなんだろう」「これが起こったのはなぜ? 」というような問いを抱かない人はおそらくいないだろう。その問いが頭をもたげるのは、それが起こらなかった世界が想像できるからである。つまり、私たちはそれが起こらなかった可能世界を思い描くのだ。そしてそれは、現実をよりくっきりと浮かび上がらせる。「これが起こらなかった世界X」「あれが起こらなかった世界Y」ではなく、「これが起こってしまった、あれが起こってしまった”この”世界」であるということが、否応なく私たちに見て取られる。それは可能世界を思い描けば思い描くほどに、現実はくっきりと浮かび上がることになりはしないだろうか。

 

 小説を読むとは可能世界を体験することであると述べた。であるならば、小説を読めば読むほどに、「私は白雪姫でもなくラスコーリニコフでもなく、他ならぬ私でしかなく、この世界はタイム・マシンがある世界ではなく、幕末の時代でもない、いまこの世界でしかない」ということが浮かび上がってくるのではないだろうか。であるならば、小説を読むことで逃避することは不可能である。

 

 

 

 しかし、ここでもう一歩考えたい。たしかに、辛い気持ち、嫌な気持ちになったとき小説を読み、元気をもらうのは多くの人が経験しているようにも思う。おそらくここから、小説は辛いときに現実逃避するために読むということが言われたのではないかと思う。

 

 しかし、これは二つの方向から説明できるように思う。ひとつは読書体験には人間が幸せを感じる要素があるということ、もうひとつは再認識の問題である。

 

 前者から述べると、これは聞きかじった話で恐縮だが、人間が幸せを感じるものにはいくつかの要素があるらしい。それは例えば快楽であったり、人とのつながりであったりである。そしてその中に、没頭というものがあるという。いわゆるフロー体験というものである。(これを聞くたびに西田の純粋経験を思い出す。)読書はそれこそ没頭をする行為であるから、読書を終えた後には没頭という体験のあとで幸福感を得られるはずだ。それを現実逃避したと感じるのではあるまいか。(実際、なにかやるべきことを放り出して読書をした場合は現実逃避と呼べるだろう。)

 

 後者について述べると、「今の世界の価値を再認識する」ということだ。先ほど、読書によって可能世界を体験することで現実がよりくっきりと浮かび上がると述べた。そこで、例えば可能世界にないものを現実世界に見出したり、また、物語中での主人公の世界の見方から、世界の新たな見方を学び、そこから現実世界の価値を再発見したりということができるようになるだろう。これは先ほど例に出した、「嫌な気持ちになったときに読書をして元気になる」というものの内容である。

 

 まとめると、読書で現実逃避をすることはできない。むしろその逆であり、現実がよりくっきりと浮かびあがるのである。しかし、読書という行為そのものから幸福感を感じたり、そこで価値の再発見をしたりすることはできるのである。

 

 

”父”という幻想――『アメリカン・スナイパー』

先日『アメリカン・スナイパー』を観た。面白かったがなんとなくもやもやした。なんというか、20世紀の天才映画監督クリント・イーストウッドが21世紀へと抜け出そうとして抜け出し切れなかったような、そんなもやもや感だった。

 

この映画は不完全な”父”の物語だった。主人公のクリス・カイルは「羊でもなく、狼でもなく、番犬となれ」と父親から教わって育つ。この番犬とは狼にいじめられる羊を守る、正義感に溢れた強い存在であり、明らかに”父”である。一家の番犬たる父からそう教わったクリスは軍隊に入る。世界の番犬=父としてのアメリカの、その最前線に立つのだ。そこで、クリスは”伝説”と言われるほどに活躍する。彼は世界の”父”なのだ。

 

しかしクリスとて完全な”父”ではない。”仲間を助けるんだ”と言い戦場に赴くが、相棒の兵士は撃たれ、その後死んでしまう。他にも多くのアメリカ兵が死んでいく。また、イラクへ行くたびに家族とは距離が離れていくのである。

 

そして、彼が帰国して家族と過ごしていたとき、非常に象徴的な出来事が起こる。彼はだんだんとPTSDみたいなものに悩まされるようになっていたのだが、彼の子どもが公園だか庭だかで遊んでいて飼い犬とじゃれあっているとき、その発作に襲われて犬を押さえつけ、殴りかかろうとするのだ。これはすんでのところで我にかえるのだが、”番犬=父”であるはずのクリス・カイルが番犬を殺そうとするのである。ここにはもう偉大な”父”の姿はない。ここに父としての姿の、決定的な行き詰まりがあったように思う。

 

その後、この映画のボス的な存在である敵の凄腕スナイパーを倒し、クリスは退役する。

そしてこの映画の最後に、クリスは死ぬ。退役軍人のひとりに殺されるのだ。徹底して”父”であろうとした主人公は、決して”強くて正しい父”にはなれなかった。

 

これがイラク戦争を舞台にした映画だというのもまた象徴的である。イラク戦争は正しい戦争ではなかったのだ、正しく強く世界の”父”たるアメリカなんて幻想だ、ということを伝えようとしているように思えた。”番犬=父”になるべく育ち、”世界の父”たるアメリカ軍で伝説となったカイルですら、そうではなかった。家族とは溝ができ、戦争では戦友が亡くなり、戦争自体も正しいものだったとは言えない。

 

アメリカはもはや”強い父”ではないのだ。このことをクリス・カイルという一人の人間を通して、様々なレイヤーで見事に描き出したイーストウッドは流石である。そういう意味で非常に面白かった。そして、20世紀のいわゆる”大きな物語”というようなもの、強くて正しいアメリカ像のようなもの、そういうものはもはや描かれず、むしろその不完全性が描かれるというところは、やはり21世紀ももう10年以上経っているからな、という感じがした。

 

しかし、クリス・カイルはただ死んでしまった。最後まで、”父”であろうとして。それが不完全なものだと知っているのにもかかわらず。彼は決して父ではないものになろうとしなかった。つまり、行き詰まったままにその生涯を閉じ、この先の21世紀を示すことができなかった。ここになんとなくもやもや感を感じてしまった。

 

 

 

誕生日という日が特別である理由

誕生日は特別だ、と思う。正確に言うならば、誕生日を祝ってくれる人がいるということは特別だ、と思う。

 

なぜかというと、誕生日を誰かに祝ってもらえるというのは、その祝ってくれる人から自分の存在そのもの、自分が存在していることそのものをありのまま肯定されることだからだ。

 

私たちは存在そのものを肯定されることがほとんどない。基本的には自分が他人にもたらしたものによって評価されるのだ。人が社会の中で生きるにはコストがかかるので、それ以上のリターンを他人にもたらさない限り、肯定的に思われることはまずないといっていいだろう。例えば、生まれた家でご飯をたべてゴロゴロしているだけだと、ほぼ間違いなく生みの親から「穀潰し」と罵倒される。その親の都合で生まれてきたのにもかかわらず、だ。血も繋がっていない赤の他人ならなおさらである。

 

そしてこの「親の都合」が重要なところだ。つまり、私たちは生まれたいと思って生まれてきたわけではない。気づいたら自分の意志など関係なく生まれてきていたのだ。この被投性がある限り、私たちは自分で自分の「存在」を無条件で肯定することは難しい。

 

誕生日とは誕生したことを祝う/祝われる日である。つまり、誕生日を祝うというのは、その存在を無条件で肯定するという行為なのだと思う。そして、他ならない自分の誕生日の対象は自分以外にはいない。これは他の多くの記念日、例えば結婚記念日などとは一線を画す性質だと思う。

 

誕生日を祝ってもらえるということは、他ならない自分の存在そのものを、自分の存在それだけを無条件で肯定してもらえることである。だから誕生日は特別なのだ。

「若者論」に賛成する若者は存在するのか

「若者」論のほとんどに同意できたことがない。現代の若者はかくかくしかじかである、という論は世の中に数多あり、もちろんその全部を読んだわけではないけれど、彼らの分析に若者の一人として「そうそう、そうだよな!」と思ったことはない。もちろん彼らの分析の全てにそう思うわけではない。この一センテンスには、この一段落には納得する、というようなことはままある。

若者のみんなはああいうものをどういうふうに捉えているんだろうか。ああいうものに概ね同意だったりするのだろうか。

僕は「東京大学合格者数トップ10」みたいなものに入るような私立中高一貫校を卒業して、世間でも「お利口さんだね」と言われるような大学に在学中である。つまり、疑いなく自分は同世代におけるマイノリティなのだ。世の中の大多数の人間から最も遠いといってもいいような世界で青春時代を過ごしてきた。世の中を動かす官僚を一番輩出する東大が一番世間離れしている、みたいな皮肉と同じ論理である。

さらに言うならば、そこでも僕はマイノリティだった。同じ世界にいた友人たちの家庭は、皆高学歴で高収入でいわゆるエリート家庭だったのである。まあ当然ではあるけれど、エリート校に子どもを通わせる親御さんなんてだいたいエリートなのだ。一方で僕の両親は大学なぞ行っておらず、高収入でもなく、まあ普通の高卒で働き始めた人間が結婚して作った家庭なのである。つまり、なんと言うかある種のねじれを抱えて育ったのは事実だと思う。僕のような家庭で私立中高一貫難関校に行っている人を僕は自分の母校でも、他の学校でも今のところあまり知らない。

家庭内についても、育つ中で「ここはあまり普通の家ではないのではないか」という印象を持っているが、家庭内なんてどこも千差万別だろうしまあいいとしよう。

 

とにかく、そういうマイノリティの中で育ってきたという感覚が確かにあり、自分が若者の感性を代表できるとは全くもって思えないのである。

そういえば前に、同じ中高出身の友人も、若者論などがピンときたことがないと言っていた。しかし彼も僕と同じくエリート校出身であるというマイノリティであるため、彼の意見が世の中のスタンダードだとも思えない。サンプル数1だし。

これらは、僕(ら)の感覚がずれていることの証左なのだろうか。

 

しかし、若者論、世代論とはそれが成功している限りでハイソだろうとそうでなかろうと世代・時代に共通するものをあぶり出しているはずなので、そういう意味ではマイノリティかどうかなんて関係ないはずである。しかしそれにしても彼らの論にはあまり同意できない、というかどこかずれた印象を受けるのである。

また、これは感覚でしかないが、若者論、世代論について「そうだよ、僕たちはこういう存在なんだよ!」と膝を叩いているような人をリアルでもネットでも見たことがないように思う。

「今年の新入社員は○○型である」みたいな謎の評価もそうだけれど、ああいうものはもしかするとこれまで成功したことがないのではあるまいか。

 

マイノリティたる自分とその周囲の感性がずれているか、若者論・世代論が成功していないか、どちらなのだろう。

 

というか、どういう出自の人なら「俺がレペゼン若者だ!」と言えるのだろうか。いわゆるマイルドヤンキーだろうか。謎だ。まあこういうのは個人に代表される性質のものでもないとも思うけれど……。というかマイルドヤンキー層だって、当人たちに「マイルドヤンキーとは○○な人である」みたいなものを読ませてみたとして、彼らが「そうそう、おれらってこういう存在だよな」と言うかはけっこう疑問なのではないか。

 

そういえば成人式のときは会場に行ったら本当にヤンキーがめちゃくちゃいて、「この地域には、というかこの世の中にはまだこんなにヤンキーがいるのか」という謎の感動を覚えた。そして「彼らは普段どこにいるんだろう…」とも思った。彼らとは本当に行動範囲がかぶっていないのだろう。

 

「思い出のマーニー」についての感想とちょっとした考察

「思い出のマーニー」を観てきた。

 

 


「思い出のマーニー」劇場本予告映像 - YouTube

 

 

正直よい評判を周りから聞いていなかったので、あまり期待せずに観たのだけれど、ものすごくよかった。ここ最近のジブリ作品では最も良かったと思う。

 

スタジオジブリは長編制作を小休止するとのことで、これが最後の作品となる可能性もある。この作品を作ることができる実力を持ちながら、制作部門を一時的にせよ畳むのは本当に惜しい。また、この作品が、高畑・宮崎両監督が企画・脚本に関わらない初のジブリ長編作品であったという意味でも、今後の可能性をここまで見せてくれたのに…という思いがある。

 

以下ネタバレ含む。

 

 

マーニーの良かった点は主に二つあった。

まずひとつ、主人公に共感出来た点。そして、話の展開である。

 

マーニーの主人公は、主人公はこれまでのいわゆるジブリキャラクターと一線を画している。「魔女の宅急便のキキ」や、「となりのトトロ」のサツキとメイなどのキャラクターは、幸せいっぱいの家庭で育っていて、安心できる場所がしっかりあって、毎日の生活が幸せと思っているタイプだろう。観ているこっちとしては、彼女らになりたいけれどほぼ叶うことのない、というようないわばユートピア的な存在だと思う。

 

一方でマーニーの主人公アンナは学校では疎外感を感じているし、自分のことは嫌いだし、お祭りには行きたがらない。歪みと言うか、こじらせというか、そういうものを持った人間なのだ。家庭も様々問題を抱えているようなシーンもある。

 

この世には、目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、わたしは外側の人間。

 

映画は、予告でも流れるこの台詞から始まる。僕は映画や小説に対して「共感した」という感想、読み方をあまりしないのだが、この時点ではやくも共感を覚えてしまった。

 

まあ、最後にはいつものジブリキャラよろしく元気でさわやかな少女になってしまうのであるが。

 

次に、話の展開であるが、これは二つの意味がある。

ひとつは、このような話を考えることができる人への嫉妬である。『霧のむこうのふしぎな町』よろしく、何か不思議な体験をする系の話を考えることが出来ることになんだか嫉妬してしまった。こういう作品は誰も傷つかないし、読後感のフワフワした感じが好きだ。ちなみに『霧のむこうのふしぎな町』は「千と千尋の神隠し」に影響を与えた作品でもある。まあ、これは原作が別であるのでこの映画に感じるのも変な話なのだけど。

 

霧のむこうのふしぎな町 (新装版) (講談社青い鳥文庫)

霧のむこうのふしぎな町 (新装版) (講談社青い鳥文庫)

 

 

そしてもうひとつは、話の作り込みに関するものである。

 

あらすじの前半としては、

疎外感を感じており家庭でもうまくいっていないようなアンナが喘息の療養のために、親戚の家にしばらく行くこととなる。そして、そこには長年誰も住んでいない屋敷があった、というものである。そこを舞台に物語は展開する。

 

アンナには、そこに住む少女が時々見えるのである。彼女の名はマーニーであり、二人はときどき遊ぶようになる。

 

このマーニーは、アンナに対して「私たちのことは秘密よ、永久に」という約束をする。

 

そして一緒に遊ぶうちに、アンナはマーニーに対して友情の範疇を超えるような思いを明らかに抱いているように見える。

 

そして、その後、屋敷に人が来ることとなり、実は改修工事が進んでいることもわかる。そこに住むこととなる女の子さやかとアンナは友人になるのであるが、さやかはその屋敷で「マーニーの日記」なるものを見つけた。

 

その日記には、アンナと一緒に遊んだものと同じものが書かれていたのである。

 

おそらくこれは、かつてそこの住人だったマーニーの、屋敷への愛着がアンナにマーニーを見せていたのだろう。その屋敷が改修工事でなくなってしまうからこそマーニーはアンナの前に現れた。そして、その屋敷を忘れさせない=残すために、マーニーはアンナに対して「他の人には言わないで」という約束=誓約をしている。これはアンナにとってマーニーを特別なものとすることで、アンナの中に永久に屋敷を残そうとしているのだろう。そして、屋敷に残ったきわめてパーソナルなもの=日記を言わば媒介にしてマーニーが現出していたために、二人は日記と同じことしかできなかったのである。

 

この時点で、日記に書かれているすべてのイベントは消化されていて、その後数ページは破られていた。

 

その後、アンナはまたマーニーに出会う。アンナはマーニーと一緒にサイロへ行くのであるが、そこでマーニーは幼なじみの男の子の名前を連呼し、どこかへ行ってしまう。

 

その後アンナはマーニーのところへ行き、予告でもある「許してと言って」「もちろんよ」というくだりがある。これが二人の会う最後のシーンであり、アンナはマーニーを一生忘れない、と言う。(ごめんなさい、うろ覚えになっていますが確か言っていたと思います)

 

その後アンナは病気になるのだが、そこにお見舞いにきたさやかにマーニーの日記の破られた部分を見せてもらう。そこには、幼なじみの男の子のことばかりが書かれていた。そして、サイロについて書かれた日記が最後だった。ここでも、マーニーが日記から外れた行動を出来ないことが示されていた。

(しかし、二人の会う最後のシーンはそこから外れているのでもう一度見て考えたい)

 

そして、その後屋敷の絵をいつもかいているおばあさんにマーニーの話を聞く。そこでは、マーニーがアンナの祖母であること、アンナは小さい頃祖母であるマーニーと過ごしたことがあることが明らかになる。マーニーも生前はあまり愛情に恵まれた生活を送っておらず、強い愛を持って孫アンナを育てる決意をしていたが逝ってしまったのであった。

 

これが最後に明かされる意味は大きい。マーニーは、単なる屋敷への情念からアンナの前に現れたのではなかった。それだけでなく、他の誰にでもないアンナへの強い思いがマーニーの現出を生んだのである。つまり、マーニーを見ることは、マーニーと出会うことはアンナにしかできないことであったのだ。

 

この映画からは人の土地に対する強い思い、人に対する強い思いを強く感じた。もう一度見に行こう。

 

 

あとがき

マーニーの出てくる幻想シーン?と現実シーンが非常にシームレスだったこともありあまりうまく文章化できなかった。ああ、文章を書くのは難しい。

 

またジブリでよく見る、何かした後に一瞬間ができて二人で笑い合うシーンは健在だった。

 

また、マーニーに限ってないので触れなかったがビジュアルの美しさはやはりすさまじかった。スタジオジブリはすごい。キャラクターの動作も、適度にデフォルメ?をしながらも過不足無くリアルさをもって見せることができているように思う。

 

妖怪ウォッチとポケモンにおける雑記

妖怪ウォッチが大ブームらしい。

 

僕は完全にポケモン世代で、幼稚園児のころに青・緑・赤が出て、小学校のときに金・銀が出た。

ポケモンカードもやっていたし、親と一緒にスーパーに行けばポケモンパン(シールがついてくる)をねだっていた。

 

周りの友人達もみなポケモンのゲームをプレイしていたし、ポケモンが社会現象となった感じは体験してきている。幼稚園の頃、ポケモンのアニメで起こった、いわゆるポケモンショックもおぼろげながら記憶にある。アニメ自体は親に禁止されていたので見ていなかったけれども。

 

今の子ども達にとっての妖怪ウォッチは、僕たちにとってのポケモンなのだろう。

 

そんな妖怪ウォッチが気になり、アニメを見てみた。

ポケモンで言うところのピカチュウジバニャンだと思い、ジバニャンが一番出てくるのだと思っていた。しかし、それが違うのである。

 

主人公にいつもついているのはジバニャンではなく、ウィスパーという妖怪なのだ。このウィスパーが何ともウザい。まず全くかわいくない。せなけいこ『ねないこ だれだ』の表紙に描かれるようなお化け的ビジュアルをしており、たらこくちびるなのだ。ジバニャンの愛らしさと比べたらもうダメダメである。

 

そして、このウィスパーは、主人公が新しい妖怪に出会うたびに「あれは○○という妖怪…!」とかいう役回りなのだ。言わば、漫画『テニスの王子様』(初期しか知らない)における堀尾的な存在なのである。ちなみに堀尾はテニスのウンチクに精通しているもののテニスは弱いというどうしようもない登場人物なのであるが、ウィスパーはもっとひどい。なんと、ウィスパーは妖怪の知識に精通していないのだ。常にタブレットを持っており、それで妖怪を検索するのである。まあ、これによってキャラが立っているのであるが。

 

次にジバニャンであるが、これがかわいいのである。猫だし。そして、特徴が性格にあるように思う。『シャーマンキング』の麻倉葉も顔負けのやる気のなさなのだ。主人公に呼び出されても、あまりにやる気がなくそのまま帰ってしまうこともある。最高だ。

 

そんな妖怪ウォッチのアニメをみているうちに、ポケモンを念頭において見ていたせいか、ポケモンとの違いが少し気になった。

 

まず、ポケモンはゲットするものであるが、妖怪は友達になるものなのだ。ポケモンにおいてはトレーナーとポケモンにおける上下関係が明らかにあるが、妖怪と人間は対等なのである。

 

そして、妖怪はポケモンと比べて非常に人間らしい。ウィスパーが妖怪の解説をするのもそうだし、ジバニャンがニャンKB(妖怪ウォッチの世界における)を好きなのもそうだ。人間と全く変わりがないのである。そのためか、アニメにも妖怪を主人公とした小シリーズのようなものが多くある。

 

そして、妖怪ウォッチはポケモンと違い、完全な現実世界をベースにしている。主人公は普通の小学生だし、アニメの内容も、トイレの大に入ったことをばらされて恥ずかしがる、みたいに小学生のときに本当に学校で体験しそうなことを描いている。

 

そしてこれが一番の違いであるが、主人公の目的の有無である。ポケモンの主人公は「ポケモンマスターになる」という確固たる目的を持ち、旅をする。一方で妖怪ウォッチの主人公は、特に目的を持たない。普通に小学生として生活をしているだけなのである。

 

ここには、資本主義とその限界のようなものを見てとることができるのではないだろうか。

確固とした目的(ポケモンマスターになる)を持ち、そのために何かを(旅を)するというのは、資本を増やすことを唯一の目的にして今も膨れ上がり続けている資本主義、禁欲的に資本を増やそうとする資本主義と相通ずるものがあるのではないか。ポケモンが社会現象だったころ(1996年〜)はまだ、資本主義の限界のようなものは見えてこなかった。むしろ、1991年にソ連が崩壊し、資本主義陣営はその勝利の余韻に浸っていた頃であろう。

一方で、我々は既にリーマンショックをはじめとして、資本主義が絶対的なものでないことを徐々に感じ始めている。資本主義は完全ではなかった、そのオルタナティブを探さねばならないと。その中で、「目的」の排除というものがその射程に入ってくるのである。そして、生活とは目的のなさをその根幹に置くものであるように思う。妖怪ウォッチの主人公ケイタは何も目的を持たず、ただ学校に行き生活をしているだけなのだ。もしかするとここには、強迫観念的に目的を持つことを強いられる資本主義社会への疲れも現れているのかもしれない。

 

つまりポケモンの主人公サトシは資本主義を体現する存在であり、妖怪ウォッチの主人公ケイタはポスト資本主義たりえる存在なのである。

 

もはや自分が何を言っているのかわからないが、ピカチュウジバニャンが戦えば、ネズミ対ネコである以上、ジバニャンが勝つのである。妖怪ウォッチサイコー。